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「死の接吻」(2011年11月) [掲示板再録]

>>>三一十四四二三 -- 11/11/28-22:38..No.[14186]
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戦後ミステリではベスト級の傑作とされるが、今日まで読んだことがなかった。
非常に凝った構成で、殺人者の正体が次第に明らかになるところまでは抜群に面白く、ミステリとしての満足度も高いが、殺人者の正体が判明すると、あとは断罪の物語となって、それほど楽しくない。
実は最後の最後でもう一ひねりあるのではないか?と期待したが、それはなかった。

2回映画になっているが、小説ならではのトリックなので、映像化は不可能なはず。
どうやって処理したのか?あるいは処理できなかったのか?は興味津々であるけれど、映画の評判を聞かないところからして、小説のネームバリューだけ頂戴したのだろう・・・となんとなく想像できる。



>>>三一十四四二三 -- 11/11/30-12:47..No.[14197]
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「死の接吻」は二度映画化されている。(1950年代ロバート・ワグナー主演。邦題「赤い崖」。90年代にマット・ディロン主演で「死の接吻」)
いずれも失敗しているとのことだが、それは当然だ。
小説「死の接吻」は、第一章が殺人者の視点。第二章が被害者の姉妹で殺人者の正体を暴こうとするヒロインの視点。そして第三章が正体を明かした殺人者と被害者家族を神の視点で描いている。
映画化可能なのは第二章と第三章。
しかしこの小説は第一章で、殺人者の名前が隠されているところがミソなので、第一章が映像化できなければ、作品として成立しないのだ。

 一人称映画というのも映画史の中にはあるが、それは大変希なケースである。
一本の映画に主観描写が混じるケースはあるが、その方法で「死の接吻」の第一章部分の映像化はできない。何故なら映画は「声」も聞こえるからだ。顔が写らなくとも、声が聞こえたら二章以後で犯人がすぐに特定されてしまう。
 第一章だけ主観描写。しかもサイレント。という手法をとれば・・・?
いやしかし、そこまでして映画化する必要があるのか?という問題が出てくるだろう。そんな不細工な映画は誰も作りたくないからだ。


 映画の中で、これに似た構造の作品といえば「サイコ」がある。
まず第一章でヒロインが殺されてしまい、第二章からは別のヒロインが探偵となって活躍する。
この場合、犯人が特定されているので根本的に「死の接吻」とは異なるけれど、ヒロインが交代するという仕掛け(つまり最初のヒロインが映画のルールに従わずに途中で殺害されてしまう)の面白さと、構造自体はよく似ている。

「サイコ」にはロバート・ブロックの原作があり、映画は比較的忠実に作られているが、案外ヒッチコックは「死の接吻」の構造も意識していたのではないか?と思える。




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