SSブログ

「007スカイフォール」 [映画のあれやこれや]

3本続けて教養小説的ボンド映画が続いた。
教養小説とは青年が自己形成していく過程を描く小説で、ビルドゥングスロマンの下手な訳語である。

かつてのジェームズ・ボンドは充分成長し、完成された大人であった。
むしろ嫌味なほどに完成されすぎていて、どんな難事においても余裕綽々に対応するところが、怠惰な我々に「あ~俺もああいう大人になりたいものだ・・・」と思わせたのだ。

この完成され過ぎた大人の魅力が疑問視されるようになったのは「リビング・デイライツ」あたりからか?
ボンドは内省的な面を見せるようになり、判断を誤ったり、迷ったりすることが増えてきた。
これは他ならぬ青春の惑いであって、つまりボンドはこの時あたりから、完成されすぎた大人であることをやめ、未完成な部分を持つ男(これを人間的ともいう)に退行を始めたのだ。

そして、ボンドを「もっと足りない人間」として、より成長の糊しろを見せるようになったのが「カジノロワイヤル」から始まるダニエル・クレイグの作品だ。
(苦渋に満ちたダニエルの表情、眉間の皺に新生ボンドが「足りない男」であることが示されていた)

「カジノ」「慰めの報酬」にわしが強く反発したのは、なんだか適当なことをやって適当に事件を解決してしまう「調子のいい男」「要領のいい男」であるはずの「大人のボンド」像が微塵も感じられなくなったからだ。
そして未完成な男の成長物語となった作品は「事件中心」のスペクタクルから、ボンド個人の人間ドラマに規模縮小してしまい、旧シリーズの魅力であったスケール感が消えてなくなってしまったからだ。

 新作「スカイフォール」が、そんなわしを納得させる出来だったのは、ボンドが試練克服の末、かつての大人のボンドに成長しつくしたことが、手ごたえとして感じられたからである。
また、その試練克服の手段が、映画の源流を通り越して、原作の根本部分にまで遡ることだった、というのも説得力があった。これは原作を含めたシリーズのファンにとっては堪らないカタルシスであったはずだ。

 大方の教養小説は主人公の成長過程を追い、その先を暗示するように終わる。しかし「スカイフォール」は、きっちりと成長の着地点を示した。
だから教養小説的ボンドはこれで終わりである・・・と信じられたことが一番良かった。
しかし次回作からは難しそうだな。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。