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「特別編集ジェイムズ・ボンドのすべて」の謎が解けた(2) [映画のあれやこれや]

OSチェーンの高松ライオンカンは「007私を愛したスパイ」公開時(77年)宣伝の一環として四国OS共同のパンフレットの作成を企画した。
それは月刊ロードショーの007特集を流用した安易なものであったが、その中の4ページを各館オリジナルにすることになった。
当時ライオンカンの支配人だったN氏は、その4ページを地元の007ファンに任せれば、一般の観客も親しみをもてるものに仕上がると考え、高松市にいくつかあった映画サークルの一つで運営委員を務められていたK氏に依頼したのだ。
(N氏にK氏を紹介したのは同じ映画サークルに所属する大学生。彼はライオンカンのオールナイト興業時のアルバイトだった)

依頼を受ける事にしたK氏は、地元分4ページを作成。これによりN氏との交流が始まることになる。
(なお、K氏はこの時謝礼として6シートのポスターをもらったとのこと)

*ちなみにライオンカンが「007私を愛したスパイ」のために用意したアイテムは
(1)前売り券購入者特典としてシリーズ1~10作までのポスターをレイアウトしたB3版カレンダー
(2)映画館階下のパチンコ店の景品として10周年記念ラベルのタバコ
(3)全10作ポスター・セット(配布方法不明)
また試写会時本編上映前にシリーズ全作の予告編上映も行われたという。


78年秋。K氏は松山で仕事をすることになるのだが、79年、「007ムーンレイカー」の公開が近づくと、再びN氏より「今度も宣伝用パンフレットを作りたいのだが協力してほしい。内容はすべて任せる」という申し出があった。
K氏は「すべて任せていただけるなら片手間にはできないので、私の所属するデザイン会社に発注してほしい」という条件をだし、これが適ったことから「特別編集ジェイムズ・ボンドのすべて」の制作が始まった。
以下はK氏のメールをそのまま引用する。

趣味の物は殆ど実家に置いたままだったので、休みを取って家に帰り使えそうな物を鞄に詰め込んで戻り、まずは次の打ち合わせのためにラフ・スケッチ制作です。
目標は自分が欲しかった物、作りたかった物、値段を付ければ買って貰えるような物、そして売っているパンフレットには負けない物を作ろうと思いました。
ラフ・スケッチの元となるサムネールをページの構成や配分を考えながら描き上げます。
表紙、新作の紹介ページ、歴代ボンドのフィルモグラフィー、ボンド辞典。それらをA4原寸大で仕上がりをイメージして貰ったり営業が広告を取りに行くための材料としてラフ・スケッチを仕上げます。
出来上がったところでOSチェーン4館の営業と打ち合わせ。フィニッシュ・ワークの開始です。

テキスト原稿を写植屋さんに順次発注、写植が出来上がったらイメージに沿って版下の台紙に線を引いたりしながら写植を切ったり貼ったり。
そうこうしている内に高松ライオンカンから表紙用のポジフィルムと本文用の私を愛した・・・までのスチール写真が届きます。
表紙用のポジフィルムはライオンカンのS館長が大学時代の同級生で友人でもあるキネマ旬報編集長K氏から同誌の表紙に使用したフィルムを借りた物と記憶しています。
スチール写真は何処で調達したかは不明です。
しかしスチール写真は殆どが私が使いたくない物だったので、私の持ってきた本や雑誌から選んで使う事にしました。使用したスチール写真はムーンレイカー位です。
歴代ボンドの大きな写真やハイコントラストの写真は名前はデザイン・スコープだったかな?それを使って自分で使用サイズにプリント。
そうして出来上がった版下をコピーして今度は校正。一部を地元の松山スバル座に提出。書かれた内容を読んで貰うだけで本当の校正は私だけしか出来ません。
何度も読み返しましたがご覧の通り直しきれていません。
今回もざっと読んでみて赤面しております!

表紙の色校正が印刷会社から届きます。用紙は厚くて綺麗な紙だ、これ位の紙を使いたかった!マズマズの状態だったのでGOサイン。いよいよ印刷開始です。
前後して徳山国際劇場から営業が巻末に挿入する部分を松山観光港までフェリーで持って来ると言うので、印刷会社の人だったかと受け取りに行く。
安くしているのだからスバル座までぐらい持って来れば良いのに…徳山は遠いので少しでも早く帰りたかったのでしょうね。

全部、私一人でやったものだから結局、前売券の発売開始に間に合わす事が出来ませんでした。
ライオンカンではパンフレットが届くまで購入者に引換券を配布。版下や写植屋さんに原稿を届ける位はアシスタントに手伝って貰っても良かったのですが、スタッフも数人しか居なかったし私自身も他の仕事を掛け持ちで作業をしていました。

その後、ライオンカンのN支配人に遇った時に、「これは《私を愛したスパイ》の時に作りたかったね」と…。
全くその通りで、誰も、あのサイズ、内容の物になるとは思ってなかった筈です。(そうそう《ムーンレイカー》もオリジナル・ラベルのタバコを作っていました)

以上が出来上がるまでの凡その顛末です。
このパンフレットの制作が唯一、自由にやれて楽しかった仕事です。
一度は007関係の事をやりたいと長い間思っていて幾つかの偶然とそのタイミングが上手く重なり合って叶ったボンド・ファンの私にとって至福の数か月だったかも知れません。
これでボンドがショーン・コネリーだったら何も言うことは無かった!などと言うのは贅沢でしょうね。
テキスト原稿など本当は私よりもっと相応しい人が居た筈ですが、今と違って限られた時間で探し出す事は困難な時代でした。
もっとも今の時代なら決して私に依頼が来る事は無かったと思います。
(引用終わり)

制作にあたってK氏が参考にした資料、その他については、またの機会に報告する。

「特別編集ジェイムズ・ボンドのすべて」の謎が解けた [映画のあれやこれや]

当ブログ2009年9月27日(http://yoshi-s.blog.so-net.ne.jp/2009-09-27)で取り上げた「特別編集ジェイムズ・ボンドのすべて」は、今なお謎が多い特殊宣材冊子である。
このたびこの冊子を編集された川田氏より連絡があり、その全貌が解明したので、その詳細を報告したい。

川田氏によると「特別編集ジェイムズ・ボンドのすべて」は四国OSチェーン(高松ライオンカン、松山スバル座、テアトル土電、徳島OSグランド、徳山国際劇場)のうちテアトル土電を除く4つの劇場が共同で作成したもの。
印刷製本は松山。各劇場共通の誌面構成だが、広告は各県で差し替えられた。(ただし徳山国際劇場分は巻末に”地獄の黙示録”紹介1ページ、”読者サロン”2ページ、”フィルムマラソン”のお知らせ1ページ、あわせて4ページを添付して製本)

川田氏は全頁最低2色刷りを希望していたが、表紙をフルカラーにするようOSから指示があり、そのしわ寄せで本文の紙質が低下し、モノクロになったそうだ。

前売り券購入者、試写会入場者、公開前の入場者に配布されたが、残った物は当日券の入場者にも配布したようだ。試写会に参加した川田氏は上映後、座席や床に放置された冊子を見て
(一部当たりの単価は販売しているパンフレットより多分高いし内容だって負けてないのに・・・)
と大変がっかりされたそうだが、試写会に参加した人が必ずしも007ファンでないことを思えば、これは仕方がなかったかもしれない。
またこうして読み捨てにした人が一定数いたことで「ジェイムズ・ボンドのすべて」の希少性が高まり、現在のプレミア価値が生じたともいえるだろう。

さて「特別編集ジェイムズ・ボンドのすべて」を川田氏が担当されるにあたっての経緯については次回お伝えしたい。
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「007スカイフォール」 [映画のあれやこれや]

3本続けて教養小説的ボンド映画が続いた。
教養小説とは青年が自己形成していく過程を描く小説で、ビルドゥングスロマンの下手な訳語である。

かつてのジェームズ・ボンドは充分成長し、完成された大人であった。
むしろ嫌味なほどに完成されすぎていて、どんな難事においても余裕綽々に対応するところが、怠惰な我々に「あ~俺もああいう大人になりたいものだ・・・」と思わせたのだ。

この完成され過ぎた大人の魅力が疑問視されるようになったのは「リビング・デイライツ」あたりからか?
ボンドは内省的な面を見せるようになり、判断を誤ったり、迷ったりすることが増えてきた。
これは他ならぬ青春の惑いであって、つまりボンドはこの時あたりから、完成されすぎた大人であることをやめ、未完成な部分を持つ男(これを人間的ともいう)に退行を始めたのだ。

そして、ボンドを「もっと足りない人間」として、より成長の糊しろを見せるようになったのが「カジノロワイヤル」から始まるダニエル・クレイグの作品だ。
(苦渋に満ちたダニエルの表情、眉間の皺に新生ボンドが「足りない男」であることが示されていた)

「カジノ」「慰めの報酬」にわしが強く反発したのは、なんだか適当なことをやって適当に事件を解決してしまう「調子のいい男」「要領のいい男」であるはずの「大人のボンド」像が微塵も感じられなくなったからだ。
そして未完成な男の成長物語となった作品は「事件中心」のスペクタクルから、ボンド個人の人間ドラマに規模縮小してしまい、旧シリーズの魅力であったスケール感が消えてなくなってしまったからだ。

 新作「スカイフォール」が、そんなわしを納得させる出来だったのは、ボンドが試練克服の末、かつての大人のボンドに成長しつくしたことが、手ごたえとして感じられたからである。
また、その試練克服の手段が、映画の源流を通り越して、原作の根本部分にまで遡ることだった、というのも説得力があった。これは原作を含めたシリーズのファンにとっては堪らないカタルシスであったはずだ。

 大方の教養小説は主人公の成長過程を追い、その先を暗示するように終わる。しかし「スカイフォール」は、きっちりと成長の着地点を示した。
だから教養小説的ボンドはこれで終わりである・・・と信じられたことが一番良かった。
しかし次回作からは難しそうだな。


複数のパンフレット [映画のあれやこれや]

「007スカイフォール」のパンフレットは「4種類ある」のだそうだ。
わしはここ20年ほどは(007すら)パンフレットを求めていないので、関係ないことだが、一つの映画に4種類ものパンフレットが販売されるとなると、まさか昔のように1冊200円なんてことはないだろうし(それなら4冊買っても800円だ)コレクターの人は大変だろう。
しかし、4種類のパンフレットは、それぞれがどのように異なっているのだろうか?
ある種のCDのように、中身は同じだが表紙が違うのだろうか?
あるいは「通常版」「アイマックス版」「吹き替え版」・・・と上映方式によってわけられているのか?
まったく内容が異なる4冊?おれなら分冊とする意味はどこにあるのか?
とにかく謎が多い「4種類」だ。

(それとも最近の話題作は複数のパンフが販売されることは珍しくないのかな?)

「007トゥモロー・ネバー・ダイ」Blu-ray [映画のあれやこれや]

「007トゥモロー・ネバー・ダイ」のブルーレイを見た。
画質・音質は近作だけに大変よい。
内容はB級アクション映画的で、アメリカン・タッチ。
面白いが、右から左に抜けていくような感じ。
女優ミシェル・ヨーが画面をさらっており、ボンドの影が薄い。
見せ場と見せ場を緩く繋げただけの構造だから、体が動ける人の方にどうしても目が向くためだろう。

一番の問題点は、クライマックスに登場する敵のステルス艦の内部が、全然それらしく見えないこと。
ヤマダ電機みたい。
動いているのか止まっているのかもわからない。

この映画は嫌いです [映画のあれやこれや]

昨日「大島優子の(「悪の教典」について)この映画は嫌いです発言は宣伝になるだろう」と書いたが、わしの知る若い女性の意見は
「大島優子が嫌いと言っていたから、私も見たくない」
というものだった。
その娘は別段大島優子のファンでもなんでもないが
「テレビに出ている人がいうんだから、間違いないと思った」
と言うのだ。
「テレビに出ている人が皆偉い人じゃないぞ。それに大島優子が嫌いだからといって、あなたも嫌いとは限らんだろう」
と思うのだが、やはり世の中の多くの人間は、有名人の言葉に意外に素直に影響されるんだなあ。

普通の人は
「大島優子があそこまで言うんだから、どんな映画なのか見てやろう!」
というような屈折した好奇心の持ち方は、しないのだ。
また、もう一つ気になるのは、「悪の教典」に対する感想で、公になっているのは、この大島発言だけなんだよ。
つまり、このネガティブな意見が「すべて」というふうに感じている人は、少なくないのではないか?


 純粋なエンターテインメントで「私は嫌い」というストレートな批評は、やっぱりダメージだろうなあ。
健康食品の青汁なら「まず~い!」でも商売になるが、カルピスのCMで長澤まさみが「げえ!まず~い!」って言ったら、もう翌日から売上ゼロだろうからな。

 「私は嫌いです」はやっぱりダメ。
逆効果・・・じゃなくて、そのまんま効果で、客足を遠のかせることでしょう。

(でも件の若い女性は大島発言があろうがなかろうが、「悪の教典」は見に行かないと思う)

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「悪の教典」 [映画のあれやこれや]

AKBの大島優子が「この映画は嫌いだ」とブログに書いたことは、この手の映画の場合宣伝として機能すると思うが、わしは、この映画はそれほど衝撃的ではなかった(原作は映画よりはるかに面白いけれど、やはり衝撃を感じるほどではなかった)。
教師が生徒を皆殺しにする、という内容が「衝撃的でない」というのは、逆に衝撃的だけれど、その理由は倫理の問題よりも、描き方に問題があるのだと思う。
原作もそうだが、映画はよりマンガ的で、一瞬たりとも現実と接点を持たないように作ってある。
職員室の様子はテレビの教師モノ(しかもかなり古臭いやつ)のパロディのようだし、生徒たちの織り成す学園ドラマ部分も時代遅れのアニメのようで、まるでリアリティがない。
 クライマックスの大殺戮シーンに至っても、追い詰められた生徒が錯乱して「僕は東大に行けるでしょうか?」とサイコ教師に訊ね、連続発砲で耳を聾したサイコ教師は「え?TO DIE?」と聞き違えて、その生徒を殺す・・・といった「おふざけ」に終始しており、まあ、それは三池監督の特色ではあるのだけれど、生々しくやって問題になったら嫌だから・・・といった腰の引けた結果なのではないか?などと勘ぐってしまう。

 たとえば「スターシップ・トルーパーズ」は、残酷な大虐殺シーンと、わざとリアリティを外した日常シーンのコントラストが効果的であったけれど、「悪の教典」はそこまで戦略的でなく、無意識に内なる倫理観に従ってしまった結果、中途半端なマンガに堕してしまったのではないか?

 同じ学園内の惨事を描いた「高校大パニック」(生徒と教師の立場が逆だが)には、まだ観客とつながる部分があって、切実な感じは出てたように思う。大島優子は「高校大パニック」はどう見るかな?

映画の巨大モンスター・トップ10 [映画のあれやこれや]

海外の映画ファンが選んだ「映画の巨大モンスター・トップ10」というのが発表された。
http://www.toplessrobot.com/2012/10/10_massively_awesome_giant_movie_monsters.php
日本ほど怪獣文化が発達してない毛唐の国では、せいぜいこんなものだろう。
怪獣の個性、作品の魅力、そして歴史的意義というものを考慮すれば、「クローバー・フィールド」のモンスターや「デューン」の砂虫、「タイタンの戦い」の海神クラーケンなどがランクインするのは、どうあっても愚かしいことだと思う。
「クローバー・フィールド」は新しい怪獣映画を提示した点は認めるも、そのモンスター自体は、他のどんな怪獣に置き換えることも可能という点で魅力に乏しく、砂虫もまた印象的な活躍はしていない。
クラーケンを選ぶならハリーハウゼンには、あれもあるだろう、これもあるだろう・・・と言いたくなる。よりによってなぜクラーケンなのか?あれはハリーハウゼンの仕事としては最も満足できないものではないか?

どうも「巨大モンスター」を選ぶには情報量が不足しすぎの感がある。選びかねている。
我が国なら、10歳の少年でももっとこましなトップ10をすらすら答えることだろう。 
godzilla-vs-gamera-boatwright-595x436[1].jpg

脳味噌の量を調整できる男 [映画のあれやこれや]

知人がトム・クルーズとキャメロン・ディアスが共演した映画のBlu-rayを観たというので、その感想を聞いたら
「頭をからっぽにして観れば楽しめまっせ」
と言うのだ。
わしは
「それじゃあ、あんたは自分の頭の中身を空にしたり増やしたりすることが自在にできるというのか?は~!そりゃ器用なもんだな、そんな芸をどこで習ったのか?」
と言い返してやった。
 
 頭を空っぽにして観る、というのは何も考えずに馬鹿になって観ろ、ということなのだろう。
しかし日常の様々な嫌なことから僅かな時間でも逃避したいから我々は映画を見るのであって、「頭を空にすることで」何も考えずにいられるような特技があるなら、映画など見る必要が無い。

「頭を空にする」力があるとすれば、それは映画の持つべき力である。
優れた映画は、観客の脳味噌を空にすることも、増量することも可能だ。
何で観客が映画にあわせて「頭を空に」しなければならないのか?

「わしは自分の脳味噌の量を調整することができないから『ナイト&デイ』を観る資格がないよ」
そう言って電話を切った。
知人は、電話が切れる間際に
「お前の脳は腐っとるな!」
と吐き捨てたが、もちろん腐ってなどいない。腐るはずが無い。馬鹿者。

伏線の罠 [映画のあれやこれや]

掲示板がまだ復旧しないので、本来なら掲示板に書くネタを書く。

「銀座の恋の物語」は、前半の青春群像劇的な部分があまり面白くないので、途中でややウンザリしてくるのだが、後半、浅丘ルリ子が記憶を失ってから俄然面白くなる。
前半で提示されたあれやこれやの(瑣末な)出来事や小道具が、記憶を取り戻すための「鍵」(伏線)として機能し始めるからだ。
いったい、どの出来事、あるいは小道具がルリ子の記憶を呼び覚ます「鍵」なのか?

 ほとんどの観客は、裕次郎が描いたルリ子の抽象的な肖像画が、その「鍵」であると思い込んでいるし、映画のセオリーとしても、「そうでなければならない」はずなのだが、なんと苦労の末に手元に戻ってきた肖像画を見ても、ルリ子の記憶は戻らないのである。
肖像画が記憶を取り戻す「鍵」であると信じ込んでいた観客は、その掟破りに驚き、またそれ故に大いに落胆する。


(以下ネタバレ)
 ルリ子の記憶を取り戻す「鍵」は・・・なんとまさに「鍵」。おもちゃのピアノの「鍵盤」であった。
さらにその鍵盤は、音が出ない。ルリ子の記憶同様に壊れているのだ。
その壊れた鍵盤で、「銀座の恋の物語」を奏でていると、ちょうど帰宅した裕次郎の歌声がそれに重なる。これでみるみるルリ子の記憶がよみがえる(このシーンはすばらしい)。

 もちろん壊れた鍵盤は前半にきちんと描写されており、この何気ない伏線を、「肖像画」のわかりやすい伏線が隠蔽していたわけだ。
ミステリ通も唸らせるミスディレクションの極意。
通俗的な歌謡メロドラマに仕組まれた伏線の罠。これには一本とられました。

(キネ旬の「日本映画全集」では「流行歌におんぶに抱っこの安易な企画」と書かれ、軽くあしらわれているが、実はなかなか凝った作品なのだ。脚本は後に「乱れ雲」「拳銃は俺のパスポート」を書く山田信夫と後の名監督熊井啓の共作)
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