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「銀座の恋の物語」 [映画のあれやこれや]

 一度閉館となった「徳島ホール」という映画館で、不定期的に名画上映会が開催されている。
現在は「銀座の恋の物語」が上映中。
昨日妻と二人で見に行ってきた。
平日の午前中ということで、どうせ観客はまばらに違いない、と思っていたのだが、なんと満席である。
お客はこの1962年の映画を青春時代に見た人たちがほとんどであるから、平均年齢は70歳というところか?
80%はお婆さんであり、爺さんは付き添いという感じ。
一番若いのが、わしら夫婦である。

 映画が始まり、裕次郎の顔がアップになると
「ほ~・・・」
とため息が聞こえる。
笑うシーンではちゃんと笑うし、驚くシーンではちゃんと驚く(館内がどよめく)。
実に感じがよい。
特に、交通事故で死んだ女性がヒロインとは別人とわかったシーンで
「ルリ子ちゃんじゃない!よかった~!」
という声が出たのはよかった。この反応のよさはアメリカの映画館みたいだ。

 映画が終わると拍手もあって、本当に1960年代の映画館にタイムスリップしたような気持ちのよさだった。
また以前テレビで見たときはあまり感心しなかった「銀座の恋の物語」という作品も、こういう環境で見ると、実に楽しく、面白く、感動できるのであって、「満員の劇場で映画を見る」ことの重要性を思い知った。

劇場にはアンケート用紙が置かれており、お年寄りたちはリクエストとして
「若大将」
「旗本退屈男」
など思い思いの作品名を記入していた。

 この盛況ならこの催しはしばらく続くに違いない。
(次回は「天城越え」だそうだ)
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『特別編集ジェイムズ・ボンドのすべてJAMES BOND007』のすべて [映画のあれやこれや]

掲示板常連の「講釈いい」さんが大掃除の際発掘した「007ムーンレイカー」公開時に無料配布された小冊子「特別編集ジェイムズ・ボンドのすべて」。
わしも試写会でもらったが、やはり掲示板常連の「朕」さんに進呈したと思う(今ももってますか?)。

全国的に出回った宣材だと思うが、ほとんどのページに地元の広告が掲載されているので、広告抜きのオリジナルを各地域で広告挿入の上、製本したものと思われる。
紙質が悪いので、大切に保管されている人は少ないかもしれない。
(007グッズの紹介本でもほとんど見かけない)
そこで、発掘記念に全頁をアップしておく。
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表紙。サイズはパンフレットと同じだが紙はペラペラ。
当時は「ジェイムズ・ボンド」「ジェームズ・ボンド」「ジェイムス・ボンド」と表記が統一されていなかった。
「007」の読み方は、「ゼロゼロ」が主流で、映画評論家などが訳知り顔で「ダブルオー」を使っていた。

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「ムーンレイカー」の解説とあらすじ。チラシと同程度の情報ある。(ストーリーはネタバレが豊富)。

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シリーズ1~10作の解説。
「ドクター・ノオ」は「要塞のセットがチャチ」という当時の定番の批判。「音楽はモンティ・ノーマンでジョンバリーに比べて格段落ちる」とも書いてある。
「ロシアより愛をこめて」は「受験生が『危機一髪』を『一発』と答案に書いた」という笑い話。
「ゴールドフィンガー」は「秘密兵器が大掛かりになり知性派は敬遠し、ぼくら稚性派は大いに喜んだ」とある。

「サンダーボール作戦」は『ヤング自身が編集した版は4時間もあった』という疑惑のエピソード。
「007は二度死ぬ」は『リバイバルとテレビ放送は編集が変』という今ではよく知られたトリビア。結構マニアックだな。
「女王陛下の007」は、またテレビ放送時のカット(冒頭部分)に言及。
「ダイヤモンドは永遠に」は「コネリーがふとって動きが鈍くなった」と欠点を指摘。

「死ぬのは奴らだ」は「ジェイムズ・ボンドもやわになったものだ」とまた批判!
「黄金銃を持つ男」は「シリーズの中で最低の作品」と批判!(宣材なのに容赦なし)
「私を愛したスパイ」は「会心の作」と褒めながら「リチャード・キールのキャラクターに押され気味」とチクリ。

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真ん中から後ろは「ジェイムズ・ボンド辞典」。
今ではよく知られていることばかりだが、当時は情報が少なかったので、これでも感心して読んだものだ。
最後に編集として川田光茂という人がイラスト入りで載っている。

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裏表紙は「シマヤ」の全面広告。

 これが今、コレクターの間で、どの程度の価値を持っているのかは知らないが、内容的には立派なものだと思う。持っている人は大事に保管して欲しいですね。

幽霊の見え方 [映画のあれやこれや]

「リング」という映画に登場する「貞子」は、怖いオバケ・ランキングの第1位になったこともある最恐のキャラクターであるが、わしは(物凄い怖がりなのに)「貞子」はそれほど怖くなかった。
「貞子」は出現するまでが怖い。
実際に現われるシーンは、具体的でありすぎてちょっと戸惑う。「テレビから抜け出して這う」というアクションに『生気』を感じてしまうのだ。
果たして幽霊に斯様な肉体感があっていいものか?
もっとこう超然とした「見え方」をするものではないのか?

 最近見た黒沢清の「回路」という映画に登場する亡霊は、闇の中から抜け出してくる感じで、実に不思議な「見え方」であった。一部が闇の中、一部が現世にはみ出ている感じで、その境界線が鮮明でなく、全体として溶暗している。
こりゃ、あきらかに肉体を持ってないぞ・・・という「見え方」。
その闇に埋もれた亡霊が、じわりじわりとよろけるように歩み寄ってくる・・・
 映画の技術を駆使して作り上げられた「手間のかかった」オバケという意味では「貞子」より感心したが、しかしこれもそれほど怖くないんだな。

 わしは考えが古いのかもしれないが、やはり中川信夫の「東海道四谷怪談」のお岩の亡霊が数倍怖い。
お岩が怖いのは、無駄に動かないからだと思う。
 池に浮かびあがったお岩の亡霊に恐れをなした田宮伊衛門が、くっと目を閉じる。そして数秒後、こわごわ目を開けると、亡霊は足元まで寄ってきている。
 これはお岩が泳いできたのでも這ってきたのでもなく、ただ目を瞑っている一瞬に「どういうわけか寄ってきている」のであり、その間のお岩は死体そのものとして描写されている。
顔には全く表情がなく当然ながら生気も無い。
アクションはちょっと首を傾げたり、唇をかすかに動かしてボソボソと恨み言を吐いたりする程度だ。

 死体が「ちょっと動いたり」知らぬ間に寄ってきたり、突然逆さづりになって落ちてきたりする。
これが怖いんじゃないかなあ。
自力で這いずり回ったり、よたよたと歩み寄ってくる時点で、そこには役者の肉体性が宿り、幽霊イコール亡者であるという前提が崩れる。観客の「怖がりたい気持ち」に隙間風が吹き込む。
 幽霊は何もしない。ただ見えるから怖い・・・のではないかな?

映画のザラリとした手触り [映画のあれやこれや]

下の「ガメラ大怪獣空中決戦」のBlu-rayの画質が「悪い」と言う人が多いらしい。
DVDと比較すれば一目瞭然に「良い」が、Blu-rayとしてはノイズが多くて我慢できないのだそうだ。
識者の意見では、このザラッとした画質は「フィルムグレイン」が除去されていないのが原因らしい。
わしは何十年も映画を見ているが「フィルムグレイン」という言葉は、最近まで知らなかった。
フィルムグレインは映画作品においては「あって当然」のものなのだが、デジタル処理で消すことが可能になったためあらためて名前が付けられたようだ。
真空という概念がなければ空気という名前が必要ない・・・わけではないが、まあ、そういうものだろう。

 一部の映画作品では、Blu-rayディスク化においてこのフィルムグレインが綺麗に除かれており、画調がツルツルになっているものがある。わしがもっているディスクにもそうしたものがいくつかある。
これは、実に清潔な画面という感じで「清潔=綺麗」という考えからすると、まぎれも無く『綺麗な映像』なんだろうけれど、どうも釈然としないものが残る。
 ビデオ的な・・・電気信号的な軽薄さがある・・・というのはいい過ぎかもしれないが、わしらが映画館で接している映画とは質的に別物であることは確かだ。
 特にプロジェクターで擬似映画館を作っている者にとっては、そこに映される映像は、映画館で見たあの映像と相似形であって欲しい・・・と願っているはずだ。
 清潔であること美しいことだが、映画の画面にはもっとざらついた不潔さがあり、そこに映画らしさが張り付いているように思えて仕方がない。

 「ガメラ大怪獣空中決戦」の画質は、清潔でないからこそ美しい、という文学的矛盾が輝いている。
実に「映画的」なのだ。

ブルース・リー同窓会 [映画のあれやこれや]

先日、小学校の同窓会に出席した。
35年ぶりということで、懐かしい級友は面相も体型もすっかり変っており(わしもそうなのだが)、名札を見ないと本人であることが確認できないという有様だった。
昔話をしようにも、こう「変化」されていると、どうにも他人行儀になってしまい、話が盛り上がらない。
ところが、ある話題が出たとたんに大いに打ち解け、面相・体型の変化が気にならなくなった。
その話題とは「仮面ライダー・スナック」と「ブルース・リー」である。

 特にブルース・リーについてはとめどなく会話が弾み、とうとう横蹴りであるとか、後ろ回し蹴りを披露する者まで現われ、どこそこで「グギ!」と骨のきしむ音が聞こえ
「あ痛!」
「足つった!」
などの悲鳴があがっていた。
完全に「年齢を忘れた」のであり、ここで完全に35年のギャップは埋まってしまった。
 ブルース・リー恐るべし!

 わしらはブルース・リー直撃世代。ブルース・リーが嫌いなものはクラスに一人もいなかった。
「燃えよドラゴン」(5年生)「危機一発」「怒りの鉄拳」(6年生)、「ドラゴンへの道」(卒業時)と、小学校終盤の思い出を飾る最大のスターだった。
 
「燃えよドラゴン」の面白さがクラスの話題として騒然と駆け巡った時の熱狂は忘れられない。
「絶対見ろよ!滅茶苦茶強いんじゃ!」
「眼に見えないぐらい早いんじゃ!そして『はひゃ~!』っていうんじゃ!」
「棒を鎖でつないだやつをビュンビュン振り回すんじゃ!」
要領を得ない感想ばかりだったが、誰よりも早く見た学友は、あきらかに「狂って」おり、その拙い口ぶりには『本当に凄いものを見たのだ!』という真実が滲み出ていた。
(これは見なければいけないな・・・)
と誰もが思った。

 わしは父親と見に行ったが、見終わったときには全身の筋肉が発達している気がした。
父親は
「ごっつい奴っちゃなあ。あれホンマもんかなあ?」
と首をひねっていた。どうやら父親は、ブルース・リーの神技は何らかのトリックではないか?と思ったらしい。
しかしわしは即座に「あれはホンモノじゃ」と断言し、誰もが思ったように
(自分も鍛えればブルース・リーになれる!同じ人間だからなれるはずだ!)
と信じた。

 日に日にクラスには「ブルース・リー的な男」が増えていった。
休み時間にはカラテの稽古(自己流)に励み、手製のヌンチャクを振り回し教室の窓ガラスを粉々に粉砕した。
「はひょ~」
「ちがう!あきゃ~っじゃ!」
「いや、俺には『ハヒ~』と聞こえた」
と声真似を議論し、顔真似に励むものもいたし、漫画を描くもの(それはわし)もいた。
(当時、わしが描いた空手漫画のほとんどは、「アフロ系坊ちゃん刈り」の主人公が、奇声を発して、鉄の爪の悪党と延々と決闘し続けるものであった)
 教師は「最近プレスリーとかいうのを真似するのが流行っているが、野蛮なのでやめるように!」と警告を発したが、血走った眼の小学生達には通じなかった。

 わしらがブルース・リーにすんなりと嵌まってしまったわけは「仮面ライダー」にもある。
巨大な怪獣と戦うウルトラマンに飽きた我々の世代は、等身大のヒーローが肉体を駆使して戦う「仮面ライダー」に惹かれた。仮面ライダーは、砂浜で、石切り場で、そして万博公園で、等身大の怪人と殴り合い、蹴り合いを続けるヒーローだった。
 そこにはまだ「改造人間」という超人になるためのフィクションのステップがあったが、続いて出現したブルース・リーは、生身の人間であり、にもかかわらず明らかに仮面ライダーより強そうだった。

「ウルトラマン」に飽きた!「仮面ライダー」の嘘が気になった!そんな我々の前に「ではこれですね」と現われた「ホンモノ」のヒーロー。それがブルース・リーだったのだ。
しかもブルース・リーは「もう死んでいた」。ヒーローなのに「死んでいた」。
ここにまた生身のリアリティ、そして「こんな強靭な男が何故?」という神秘性を感じたのだろう。
 

 同窓会で35年ぶりにあったKは、その時期、わしといっしょにカラテ漫画を描いていた男だ。
(彼との共作「新武道チャイナ」は傑作だった。当時人気のあった「新八犬伝」のストーリーをカラテ漫画に応用したが、今思うと「七人の侍」に似ていた。当時「七人の侍」など知らなかったのに)
最初はぎこちなかった会話もブルース・リーのおかげで弾みに弾んだ。
「ジャッキー・チェンはダメだった。殺気がない。今はジェイソン・ステイサムがいいと思う」
と語るその男と、わしは35年ぶりに「ブルース・リー同好会」を結成した。
以後、毎日メールで語り合っているが、ネタは尽きそうにない。
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『スターウォーズ』の音楽 [映画のあれやこれや]

ジョン・ウィリアムスがフルオーケストラを指揮してクラシック調に仕上げた「スターウォーズ」の音楽は、大変な評判になったが、当時の映画雑誌を読むと
「SF映画の音楽といえば電子音楽と決まっていたのに・・・」
と必ず書かれていた。
 しかし、SF映画で電子音楽を使った例は意外に少ないのではないか?思い浮かぶのは名作「禁断の惑星」だが、他は何かあっただろうか?

昔から洋画邦画を問わずSF映画の音楽はクラシック調の大仰な音楽であることが多かったように思う。
1968年には「2001年宇宙の旅」がクラシックの既成曲をそのまま使用して評判になり、その影響で「2001年宇宙の旅」以後、「スターウォーズ」以前のSF映画の多くは、クラシック音楽の宝庫となっていた。
(「ソイレントグリーン」「ローラーボール」「未来惑星ザルドス」・・・)

 よって「スターウォーズ」がクラシック調の音楽を使用したことはむしろ自然な流れだったのではないか?
ましてや「以前のSF映画では電子音楽が常識的に使用されていた」などというのは、妄言以外の何物でもないように思う。「SF・・・科学・・・電気・・・電子音楽」といった貧弱な連想が生んだ妄言。

 当時の映画評論家、ライターの類は「SF映画」などろくに見てなかったということなのだ。

どっちを見るか?楽しい悩み [映画のあれやこれや]

シネコンに行った。見たい映画は三本あって
「レッド・クリフ・パート2」
「グラン・トリノ」
「スラムドッグ・ミリオネラ」
である。
まず時間の都合で「スラムドッグ・・・」はあきらめた。
「レッド・クリフ」か?「グラン・トリノ」か?
「レッド・クリフ」は前編がなかなか面白かった。
「グラン・トリノ」は近年ハズレなしのイーストウッド作品だ・・・

券売所の前に立ってもまだ決めかねていた。
「グラン・トリノ」・・・いや、やっぱり「レッド・クリフ」か・・・
う~ん・・・「レッド・クリフ」はしかし、前編の感じから後編の内容もだいたい予想できる。
面白いことは面白いだろうが、まあ新鮮味はない。想定内の面白さだろう。
対して「グラン・トリノ」は、タイトルもなんだかよくわからない。ポスターを見ても内容の予想は難しい。
やはりここは新鮮味を重視して「グラン・トリノ」か?いや・・しかし・・・

 思案していると後ろに並んだ角刈りの男に
「おい!兄さん、何をぶつぶつ言うとるんじゃ。後がつかえとるんやから、早うしてくれ!」
と怒られてしまった。
「す・・・すみませ~ん。えへへへ・・・」
わしは券売所のお嬢さんに言った。
「『グラン・トリフ』大人一枚!」

ヤッターマン大人一枚 [映画のあれやこれや]

昨日は「ヤッターマン」を見に行ったのだ。
イーストウッドの「チェンジリング」と「ヤッターマン」・・・どっちを見ようかなあ・・・と葛藤しているふりをして、自分自身もその偽りの葛藤に騙されながらシネコンの窓口に。
上映時間をじろっと眺めて
「おっと『チェンジリング』は12時50分からか・・・今まだ12時10分だから上映まで時間があるなあ。う~む「ヤッター・・・ヤッターマン???」なら12時20分からだから、ちょうどいいなあ。待つのは嫌だから、この「ヤッターマン」とかいうのにするか・・・」
と言い訳を唱えながら料金を払おうとすると窓口嬢が
「お客さん『超劇場版ケロロ軍曹』なら12時15分ですから、もっと待たなくていいですよ!」
(クソ・・・いらぬことを・・・)
「いや、わしはアニメは嫌いだから・・・」
「『ヤッターマン』もアニメですよ!」
「「ヤッターマン」は実写版でしょう。オリジナルはアニメだが今回は三池監督の・・・」
「あ!お客さん「ヤッターマン」のことよく知ってるんですね?」
「う・・・と・・・とにかく『ヤッターマン』大人一枚!」
「やっぱ絶対的に『ヤッターマン』が見たいんだ!オヤジなのに!」

 
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ジェームズ・ボンド死ス [映画のあれやこれや]

賛否両論の「007慰めの報酬」。
ジェームズ・ボンドのキャラクターを理想の男性から、悩み多き生身の男に変更した「カジノ・ロワイヤル」路線を、さらに徹底させたところに賛否の分かれ目があるようだ。

 旧ジェームズ・ボンドは、シリーズ物の主人公として「絶対死なない」という設定が課せられているのは当然だが、他のヒーローと違い、旧ボンドは「絶対死なない」ことを自覚している節がある。
不死を自認しているがために、窮地でジョークをとばすなど「余裕綽々」の態度を示す。

 対してダニエル・クレイグの新ボンドは、少なくとも不死を自認するには至ってないし、「絶対死なない」設定さえ曖昧である。
新ボンドの精神的な消耗、疲弊の描写は、旧ボンドには見られなかったもので、もしかしたら製作者達はボンドの死を準備しているような気配すら感じられる(リアルなヒーロー像とは、「死ぬ」という究極のリアリティを備えているという考えも出来るからな)。

 不死を自覚し、不死の自分を客観視して皮肉ることさえできる「余裕綽々」のヒーロー。
それを容認し、「不死のヒーロー」を「余裕で」楽しむ観客。
この2つの余裕の相乗効果が007の魅力だったとすれば、いづれの余裕も、かけらすら見当たらない新シリーズにわしは何を求めればいいのだろう?

通常掲示板の「慰めの報酬」批評・再録(2) [映画のあれやこれや]

投稿者:三一十四四二三  投稿日:2009年01月19日 23:43:31 No.901001 [返信]
ジェームズ・ボンドは円卓の騎士ランスロットの末裔であり、神話的世界の住人だ。王に仕え、魔術妖術を駆使する敵の古城に潜入し、美女を救い出し、ドラゴンを倒す。
この「剣と魔法」の物語は太古の昔から飽きることなく繰り返された完璧なフォーマット。
 このフォーマットの破壊に乗り出した新007シリーズは、王に仕える主人公を反逆児と設定、敵は魔術妖術を使わず、謎の古城に居を構えることもなく、ドラゴンは存在しない。
 
 神話物語を完全否定するがゆえに登場人物には血肉が与えられ、リアルな人間として描かれる。
 これの意味するところ、帰結する先は一つしかない。
 神話世界から解放された「人間」ボンドが人間であることを証明する最後の手段・・・それは「死」である。

 新007シリーズはあと1~2本続くとされる(これは新ボンドのリアリティの体現者であるアクターの契約期間であるが)が、その結末には果たしてヒーローの「死」が描かれるのだろうか?

 単に奇をてらって旧来のイメージを否定して見せているだけなら、ここで描かれたリアリズムに共感する必要は無い。
 現在の混乱&屈折が、ヒーローに究極のリアリズムである「死」を迎えるために周到に設計された段取りなら、わしはこれを認めよう。

投稿者:三一十四四二三  投稿日:2009年01月22日 10:34:36 No.904001 [返信]
まちださんの「慰めの報酬」の冒頭カーチェイスと「マックQ」の(微細な)類似性の指摘は、「ニヤニヤ」度300万%。
まず「慰めの報酬」。
http://jp.youtube.com/watch?v=QXJiYV9K77Q 
「マックQ」。
http://jp.youtube.com/watch?v=E2IQfxg2rN4&feature=related

 ジョン・ウェインがもたもた取り出すのは当時の最新兵器超小型マシンガンのイングラムだ!
 しかし「マックQ」のカーチェイスは全体に牧歌的ではあるが、緩急のメリハリはあるよね。どういうことが起こっているのか一目瞭然なのも良い。
(まあ若い人は「どこが凄いの?」だろうけど)

投稿者:三一十四四二三  投稿日:2009年01月22日 10:56:26 No.904002
http://jp.youtube.com/watch?v=bnNROMKlJlA
これを見ればわかるように、「似ている」どころの騒ぎでない。
どっちがどっちなのかわからなくなる。
(「ボーン」は音楽もカッコいいなあ)

 元祖スパイ映画が後輩を真似てどうする。
(しかも同様同質の見せ方でも「ボーン」はそれをきちんと劇的高揚感につなげる技を見せている。「慰めの報酬」はアクションシーンとドラマ部の遊離を感じる。さらに言えばアクションを牽引するドラマが存在していない。)

投稿者:三一十四四二三  投稿日:2009年01月22日 15:31:56 No.904004
ボーンは(また時代劇的に言えば)「抜忍モノ」で、追われる立場の主人公であるから、その焦燥や緊張をこういう目まぐるしい映像で表現するのもアリかな?と思うのですが、ボンドのような本来完全に追う立場にあるものが、余裕を感じさせない細切れ映像で活躍されては困る・・・というのは勝手な言い分でしょうか?

投稿者:三一十四四二三  投稿日:2009年01月24日 00:14:22 No.905001 [返信]
「完成された理想の男性像としてのボンド」と「未完成であり、未完成であるがゆえに人間的に造形されたボンド」のどちらを求めるか?
つまり、ボンドに「理想」を求めるか「共感」を求めるか?
ひいては映画に「ロマン」を求めるか「現実」を求めるか?
これが「慰めの報酬」の評価が二分される要因だろう。

 これは観客にとっての2つの選択肢であると同時に、製作者にとっての選択肢でもあった。
 この映画の製作者が「永遠の青年」であることを宿命付けられた「二代目」であったことは重要だと思う。
彼らは本当はいい年齢であるけれど、巨大な先代を継ぐ者としてのスタンスは常に青年なのだ。(わしがまさにその二代目であり、先代引退後何年経っても「若先生」と呼ばれていることで実感している。二代目はいつまで経っても先代の「子」であって、先代(親)を踏み越えられないという点で青年なのだ)
 
 完成された007のフォルムは最初からマンネリズムを肯定している(安定)という意味でも老人(親)の発想であり、それは青年の攻撃目標である。青年は常にエスタブリッシュメントと対立するものだからな。
 
 先代の意向を継いだブロスナン作品で「父親の築いた世界での安住」に対する限界を感じた青年製作者の青春の葛藤と煩悶が、「安定」に対する青春の武器「破綻」でもって「カジノロワイヤル」と「慰めの報酬」を生み出した。
(そこに「旧態依然の様式美を脱することが映画的なのだ!」という青春の視点も感じるだろう?)

 つまりエスタブリッシュメントの破壊という青春の衝動が、そのまま作品に反映された結果に共感できるか否か?ということも、「慰めの報酬」の評価に関わってくるのだろう。
こうして生み出される作品は、いわば「青春映画」であり「ビルドゥングス・ロマン」なのだけど、わしは、そういう作品を「007で見たくない」し、多くの「青春映画」の結末で青年は決して成長しない、(つまりいつまで待っても、ダニエル・ボンドは従来のボンドにはならない)ということも知っているのだ。

投稿者:三一十四四二三  投稿日:2009年01月24日 21:52:47 No.905003
 もうこうなったらダニエル・ボンドはノイローゼになるぐらい悩みぬいてもらって、最後は社会(組織)との軋轢を苦に自殺するような展開になってくれたほうが嬉しいかも。
(最後にボンドの死が描かれるかも・・・と上に書いたが、それが「自殺」だったらそれはそれで凄いとは思うね)

投稿者:三一十四四二三  投稿日:2009年01月24日 22:24:35 No.906002
ダニエル・クレイグの顔は、「青年の苦悩」が滲み出た顔なので、従来のボンドがもっていた「余裕」が感じられませんね。
(ティモシー・ダルトンも「余裕の無い」ボンドを演じましたが、その外観は老成しており、青年の不安定さは感じられなかった)

 青年ボンドはボンドに非ず。と言い切ってしまうのは、われながら大人げないと思いますが、でも、どうしてもわしには馴染まないんだからしかたがない。
 しかし「青年」製作者達もいつかは「大人」になるでしょう。その時、彼らはまた完成した男性としてのボンドを描こうとするかもしれません。それは多分、彼らの次の世代の製作者がボンド映画に関わり始める時でしょう。

投稿者:三一十四四二三  投稿日:2009年01月25日 14:00:12 No.906004
 水資源独占の悪巧みは、今日的で目の付け所がいい・・・と誰かが書いているようですが、映画を見る限りではボンドの内面の問題に比べると優先順位が下になっていて、その凶悪さやスケールは伝わらなかったですね。
別に石油でもなんでもいいっていう感じ。

 あの油で真っ黒にされたボンドガールは、敵の目的が「水」であることをミスディレクションさせるためのトリックだったのか?(まさに『水と油』)
 ミステリの定石としては、顔が判別できない真っ黒な死体は「別の人」だったりするんだけど、現在はDNAとかそういうので判別できるから、こういう手は使えない。
だから、あの死体は真っ黒である必要は無く、敢えていえばグリーンを砂漠に置き去りにした時にオイル缶を渡すブラックジョーク(あ~これもまさに「ブラック」だ)の伏線にしかなってない。

 「ゴールドフィンガー」のオマージュ・・・ってあんた、どうしてここまで違うことをやりたがっておきながら、そんな未練を示すのかも理解しがたい。

 まるまる1週間書き続けているが、まだ続きそうだ。
好きな映画のことはたっぷり語れる・・・しかし好きになれなかった映画のことは「必要以上に語れる」・・・ということか?



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